hillbridge
 
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hillbridge's monocle

なんどかトライしつつ、失敗したりしているのですが、ブログ移転します。
また失敗したらもどってきますが、今回は結構まじめです。

hillbridgeで検索したら、こっちのほうがでてくるようにがんばります。
http://d.hatena.ne.jp/hillbridge/

よろしくお願いします!

ボストンから帰ってきた勢いで・・・

今晩、ボストンから帰ってきました。ボストンの友人宅から札幌の自宅まで、何時間かかったのでしょうか。一日がかりの帰国でした。いまは身体が時差にとまどいつつ、ほっとしている状態です。早く寝れるといいですね。(他人事のような気分なので)

さて、今回ボストンに行ったのはアメリカ科学振興協会の年会に出展する仕事をするためです。久々のボストン(前に訪れたのは2年前)でしたが、相変わらず知的な磁力を持った魅力的な場所でした。怒濤の3日間の展示の他にも、北大卒のMITの先生に会って叱咤激励をいただいたり、ハーバード大学のNPO研究をしているハウザーセンターのセミナーに出席したり、MIT PressやHarvard Coopの本屋さんに入り浸ったり、つかの間のボストン生活も堪能しました。実は、ボストン滞在を予定より2日間延ばしたのですが、心良く泊めてくれたボストン大学に留学中のTに感謝!!

ちなみにボストンでの仕事の話はここ で読めます。あと、個人的に感じたこと触れたこと買った本などについても紹介していきたいなぁと思っていますが、あまりやりそうにないので、帰りの飛行機で読んでいた本を紹介します。タイトルが、The 4-Hour Workwekという本。週4時間だけ働いて暮らしていける、という怪しい感じのセルフヘルプ本の一種なのですが、不思議と読ませます。ウェブ社会を生きるの梅田さん、フリーエージェント社会の到来のダニエル・ピンクなど、自由に生きようよ、とささやいてくる本に眼がいってしまう今日この頃ですが (すでに自由に生きてるって?)、この本も方向性は一緒です。類似本にもでてくるような、時間の使い方とかビジネスの進め方がテンポ良く紹介されているのですが、どんどん稼ごうというより、どれだけ仕事の時間を減らしてお金を生み出していくか、ということに主眼が置かれているまとまり良さが肝のようです。仕事をインドの会社にアウトソースしよう、という章があるのですが、調査やスケジュール管理だけじゃなくて、妻へのごめんねメールもアウトソースというところはどこまで本当なんだろうかと思いますが、わらかせてくれます。そういえば、この本そのもの、そしてこのウェブページもアウトソースしていたりするのでしょうか。
http://fourhourworkweek.com/index.htm

それと。
トランジットの前に買ったニューヨーク・タイムズの小特集(薄っぺらい差し込みの新聞)記事 で、Co-workingっていうフリーランスのひとたちが、事務所をシェアしながら使う(シェアしていないひとも出入り可だったりする)仕組みの話が紹介されてました。こんな感じの自由に使える、使い勝手のいい事務所があったら私も借りたい!!無線が飛んでて、おもしろいひとたちと情報が集まってる。それでいて、それぞれの仕事に集中できる、みたいな。

日本語でも紹介されてますね。
http://blog.pasonatech.co.jp/hibi/105/6257.html


札幌(北大周辺)で、Coworkingできないかなぁ。興味&あて(場所、資金など)がある方は連絡いただけると幸です。日本初のCoworkingになりますよ!

ウェブ時代を行く

たしか去年の12月ごろに書いていて、著者の梅田さんが全部読みにいくぞっていうから、めずらしく推敲しようと思って寝かしていた文章だけど、特に良くなるわけでもないので、アップしてしまいます。共和主義との関わりでなにか新しいこと書けないかなぁと思ってたんですが・・・

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ウェブ関係の論評は、InterCommunicationという雑誌とか、ホットワイアードジャパン(最近ワイアードヴィジョンとして復活)、情報社会論などの文献をちょろちょろって読んではいたけれど、ここ数週間で触れた本たちの実感が、明らかに今までと違う気がする。いくつかの符号があるようなのだけど、いまだにはっきりしていない感じだ。

前提として、今している仕事にウェブが欠かせないことがある。メールとか検索エンジンだけじゃなくて、ウェブサイトの更新も毎週しているし、ポッドキャストの番組も作っている。内部的な情報管理もウェブやサーバがなければ成り立たない。とりたててITに詳しくない自分だって、ここまで使うようになるとは少なくとも大学に入った1990年代の終わりごろには考えてもみなかった。最初に与えられたE-mailの使い方が面倒なので、半年もほったらかしていた口だ。その後、情報化の恩恵をすっかり受けることになるのだが。(大学の寮のインフォメーションルームで友人にグーグルを教えてもらったときの記憶は今でも鮮明だ。)

今の自分はネットどっぷりだけど、いわゆるITの仕事はしていない。近いようで遠い。ウェブ関係の評論にも、熱くなったと思えばすぐに冷めたりと、もやもやした感覚だけが残る。たぶんきっかけは、梅田さんの「ウェブ時代をゆく」だ。彼の前著である「ウェブ進化論」から、でてくる新書は対談本も含め結構読んでいる。だから、ほとんどシリーズものの感覚で読んだのだけれど、ここまで印象に残るとは思っていなかった。この本のなかで一番印象的なのが、「けものみち」のたとえだ。情報化によってネットという「高速道路」を使えば、ある分野のエキスパートになることがこれまでよりずいぶん簡単になってきている。しかし、高速道路の先には渋滞があって、やっぱりそこを通過するのは時間がかかるし難しい。運もいるだろう。でも、ちょっと高速道路を降りてみることもできるかもしれない。高速道路ではない、けものみちを使って、情報だけではなく、コミュニケーション能力やコネクション、ポリシーを持って進んでいくことも可能だし、見方によれば、けものみちのほうが豊かだったりする。そんなことを梅田さんは根気強く訴えている。

自分もどちらかといえばけものみちを歩んでいる気がする(高速道路でもけものみちでもない?)。けれど、梅田さんの言う意味でのけものみちとはまた違う気もする。いわゆるIT系ではない自分には、具体的に梅田さんの言う「けものみち」をイメージできるわけではない。でも、今自分ができることを、発想や目線を少し変えて使ってみればもっとおもしろいことができるのではないかと直感的に感じることはある。たぶん、この本を読んだ誰もが感じる憧憬じゃないだろうか。世間的な言葉でいえばまさに「煽られた」ということになるのだが、例えば「フューチャリスト宣言(梅田望夫・茂木健一郎)」の時とは違って、もっと説得力があって、共感の幅が広い。

「フューチャリスト宣言」のときに合わせて読んだのが「ウェブ社会をどう生きるか(西垣通)」だった。ウェブ社会論というくくりでみれば、梅田さんがアクセルで、西垣さんがブレーキ。その時は西垣さんのほうが説得力があった。現状維持というわけではないのだけど、自分の現状と折り合いがつけられるように思えたのだ。実際に、西垣さんの議論のほうが冷静にみえたし、梅田さんや茂木さんの意見も大事だけれど、もっとじっくり考えていこうという気になった。

しかし、今回の「ウェブ時代をゆく」は、確信犯的革新主義であるとわかっていても引き込まれてしまうところがある。その響きの正体はまだわからない。これだと思ったアイデアを試してみることか?カリフォルニアに行ってみる?フリーランスで働いてみる?(これが一番あり得る未来だ)それとも、いわゆるウェブリテラシーを勉強する?それとも?・・・でも、梅田さんの言う「新しい職業」の誕生をどこかで信じている(信じたい)ところがある。こうなってくると、冷静な分析とは遠くなっていく。なぜなら、自分の生き方の問題と重ね合わせざるをえないから。だから、するべきなのは考察ではなく、判断だ。あるいは、判断しながら考えること。それをやっている梅田さんの魅力がつまっているところが、この本の一番良いところだ。

最近目を通した、ウェブ時代を行くに関連するテクストたち。考察ではなく判断だ、って言い切ったばかりなのですが。

・ウェブ時代をゆく(梅田望夫)
・基礎情報学(西垣通)
・Republic.com 2.0 (Sunstein)
・雑誌「考える人」特集:アメリカの考える人
・Moodle入門(井上博樹、奥村晴彦、中村平)
・Media Education for 21st Century (McArthur Foundation)
・フリーエージェント社会の到来

茂木健

茂木健の新刊新書がいつもと違う雰囲気なので購入してしまった。「思考の補助線」。いつもの新書よりも読みにくい。対談じゃないってこともある。でも、いっき読みしてしまった。こういう一見誰に向けて書いているのかわからない文章って、自分のために書かれたものじゃないかっていう感覚に陥る。日本中にそう思っているひとたちがが少なからずいるのかな。わからないからこそみえてくる世界がある。そこからなにかが生まれていると僕は信じる。そんでもって、彼をかう。

茂木健の活発な活動の根底にあるのが、悩みとか絶望とかデッドエンドみたいなことらしい。本物の絶望とか怒りが思考の糧になるのだ。それは、明示的で綺麗な物語を求めようとする近代論者(信奉者)にも、細かい話に終始して戯れるだけのポスト・モダン論者にもない哲学である。しかし、結構そうした悩める人間みたいなモデルのほうが、古典的だし、今の世には通用するのだと茂木健はいっているようだ。文系と理系を超えるとか、領域横断とかいう薄っぺらいかけ声にはない、肉声が聞こえてくる。

ビジネス書みたいなお得感はまったくないけど、そんな本たちよりよっぽど元気になれる。でも、売れないんじゃないかなぁ、この本。わかりにくさを標榜してるんだもん。(敬称略)

monocle February 2008

e通勤時間に少しずつ読んでいる洋雑誌のモノクル。今月もすごい。
http://www.monocle.com/

年明けにモノクルの編集長が日本贔屓としてテレビにとりあげられていたらしいけれど、モノクルのすごさは積極的に日本を紹介しているところだけじゃない。その日本の紹介の仕方からしても普通でない。だって、モノクル創刊号の表紙は自衛隊ですよ。(モノクルのウェブサイトでみれる自衛隊員の生活を映すフォトシネマも淡々としたものながら衝撃的だった)今月は、沖縄の特集記事もあったし、なんとガス・油田開発で変化がおきつつあるサハリンの記事まであった。北海道にいたって入ってこない情報だ。 そのほかにも、世界のニュースだってひねりがきいている。テルアビブでイスラエル寄りの報道をしない出版者の記事。政治批判をいとわない「Report」っていう番組の女性ディレクターの話。イギリスの実直なサーフグッズのブランドの話。アメリカの州別の外国とのつながりの特集(間接的に選挙特集になっている)。環境やフェアートレードの意識が高く、スイスでは2番目のリテール・グループになっている生協(COOP)の話。インテリア・コンサルタントが50年かけて建てている別荘の話。などなど、なかなか得られない情報がコンパクトにしかもデザインされて提供されている。

ウェブサイトでもいろいろ読めるし見ることができるけど、やっぱり雑誌としてのモノクルが完成度が高くってほれぼれする。日本語版作るなら、お手伝いさせていただきたいくらい。でも、なんでこういうメディアが自分の国では出てこないんだってくやしくなるのも本音。かっこいい雑誌はいくらでもあるけど、ここまでエッジが効いている雑誌はない。え?自分で作れって?

Science Cafe on Wired

サンフランシスコのサイエンス・カフェについての記事を教えてもらった
(Yさん、ありがとう!)。

(原文)
Science Cafes Tap the Nation's Fascination With Research and Discoveries
http://www.wired.com/science/discoveries/news/2007/12/science_cafe

(日本語版)
世界各地で人気を集める「サイエンスカフェ」 | WIRED VISION
http://wiredvision.jp/news/200801/2008012523.html

この記事にも書いてあるように、サイエンスカフェの良さは、飲みながらちょっと非日常なサイエンスの話ができるところ。カフェというとコーヒーだと思われちゃうけれど、夜のカフェは、お酒がないとはじまらない(西洋人はお酒に弱いということがあまりないからというのもある)。自分もかかわっている、札幌のサイエンスカフェは、場所のかっこよさは折り紙付きだけど、オープンな場所すぎてお酒が入りにくいところだ。

それなりに大きくて、お酒が飲めて、アクセスがいい。
そんな場所、札幌にないっすかね。

最新のサイエンスカフェのお話がラジオでもアップされていまーす。ほんとに多くの方に来ていただいた人気イベントでした。改めて、「不安」って日常的なものなのだなぁと。自分も含めて。
http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/project/radio/detail.php?id=118

Sustainability and Openness

http://www.icomm.lu.se/summerschool/index.html

毎年スウェーデンで行われているサマースクールの2008年の情報がでている。これに参加したのはもう3年も前になるけれど、これだけお手軽で、楽しくて、深くて、トレンディなサマースクールもないかもしれない。どんな分野のひとでも、英語と哲学にあまり抵抗がなければオススメ。しかも、テーマがサステナビリティと公開性。よく使われるようになってきた言葉だけど、そういう言葉に限って専門家がいなかったりする。もちろん、講師の知識人たちにとっても新しい。でも、新しいことに必死に取り組んでいるひとたちだと思う(形而上的すぎるとか、歴史ばかりみてるとか言われることがあるとしても)。そして、そういう人たちに出会えることが、かけがえのない経験になる。

イギリスのサイエンスコミュニケーション一覧

イギリスのサイエンスコミュニケーション関連機関や活動がウィキ大学(Wikiversity)というところにまとめられている。イギリスにいても把握できないくらいよくまとまっている。
http://en.wikiversity.org/wiki/Topic:Science_Communication_in_the_UK

この一覧のなかで、私が注目したのが、third streaming activity。それは、大学の二つの大きな活動である研究と教育に加えて、第三の活動として、地域貢献や社会貢献をしていくべきだという考え。研究者は、パブリックな活動、社会事業、文化芸術活動に関わりなさいね、ということを高等教育にお金をだす大元のところが6年前から言っているらしい。それも、ただ地域貢献だといっているわけではなく、大学のお金の流れ、地域への貢献度、そういうことをしっかり調査した上で、第三の活動をもっとしていきましょうといっているらしい。
http://www.u-kokusen.jp/foreign/london-h1903-2.html


ちなみに、高等教育政策研究所で第三の活動についてレポートしているのははたけやまさんという方。
http://www.hepi.ac.uk/pubdetail.asp?ID=203&DOC=reports

カズオイシグロみたいな日系の方だろうか。

そういうトリビアはいいとして、私もサイエンスコミュニケーションは地域貢献や社会事業として考えていくのがまともな道だと思っている。でも、地域貢献や社会貢献とかはわかりやすい指標もインセンティブもつくりずらいので、いきおい消極的になりがちだ。だから、お金の出元のところで、そういうことをしっかり言っていくのだろう。サイエンスコミュニケーションというと(狭義の)科学リテラシーだとか理系進学支援とか研究推進とか、短期的なスパンの活動を考えてしまいがちだけど、大学や研究に関する地域や社会の理解を深めていくという長期的な戦略もともなってはじめて、うまくまわっていくのだろう。大学も、意識的な制度作り、ディレクションが必要になってくる。なんか、前のエントリーのジャーナリズムの話みたいだ。

砂丘の砂シンドローム

今日は、ガ島通信 の藤代さんのセミナーがあった。

2004年からブログを書きはじめた。JFL時代から日本のサッカーを知っている。新聞の内容がおもしろいと思えない。など、藤代さんといくつかの共通点もあったので、楽しく話をきくことができた。パワポのタイトルは「民主化するジャーナリズム」。

たしかにウェブとかブログとかジャーナリズムの機能を持つようになったよなぁと話を聞きながら考えていたのは、ここ数年どうして自分がブログに書く気持ちにならないでいるのかということ。書かない理由は、それこそ自己弁護的なものならいくらでも思いつくのだけど、あまり自覚的に考えたことはなかった。藤代さんが、ご自身の経験、ボトムアップのジャーナリズムの事例や可能性について語ってくださっているのを聞いているうちに、自分が「砂丘の砂シンドローム」に知らず知らずのうちにはまっているのかもしれないと思うようになった。砂丘の砂シンドロームとは、自分の書いているブログが砂丘な砂のようにとるりたらないもので、誰も読んでやしないんだという感覚に陥ってしまうことだ。

もちろん、私には今回のセミナーで一緒に話しにきていただいた五号館のつぶやき さんや藤代さんのように、たくさんの読み手にアピールするテーマ選びもできていないし、文章力もないのだけれど、自分は書くことが嫌いなわけじゃないし、新聞にでてこないような情報を伝えたい(ほとんどの場合は英語ソースの情報だけど)という気持ちもある。実際、数年前のエントリーをみてみても、それなりにコメントをもらったりして、一応ブロガーのような活動をしているようにみえる。しかし、時間がないだとか、いろいろ自分で言い訳して書かなくなっていた気がするのだ。グーグル時代のウェブでは、自分でも考えていなかったひとが自分の記事にたどりついてくれる可能性がある。そんなことは頭ではわかっているのだけれど、感覚として理解できない。だから、だんだん書いているうちにテニスの壁打ちをしているような感覚になってくる。でも、そろそろこの砂丘の砂シンドローム、あるいは大海の滴シンドロームから解放されてもいいのではないかと思うようになった。(手始めに、なかのひと でも取り入れてみよう)まあ、つまらない私のブログ自分史はどうでもいいっちゃどうでもいい。

藤代さんのお話のなかで特に印象に残っているのは「書くことをもっとみんなのものにしたい」(言い方は違ったと思う)と言っていたところだった。この思いが彼のジャーナリズム改革論やボトムアップのジャーナリズムを盛り上げていくドライブになっているのだろうと思った。大卒で新聞社に入ったからというだけで記者を名乗り、おもしろくもない記事を書いているのはおかしい。いい書き手がジャーナリズムを担うようになり、それをひとびとが期待し、かつそれぞれのレベルで書きたいこと書ける書き手(ジャーナリスト)がたくさんいるような社会。そんな理想をサッカーになぞらえて語ってくれた。つまり、W杯で戦えるような代表チームがあり、こどもから大人までそれぞれのレベルでサッカーをたのしむひとがいて、相応のトレーニングの機会とピッチが整備されている。そういうことを書くことでも実現したいということだ。Jリーグの百年構想 をジャーナリズム、あるいは「書く」という行為(スポーツ)で構想するのだ。一昔前のサッカーのことを考えれば、その気になれば、そんなに大変じゃないような気がしてくる。要は、問題の構造を理解し、適切な道筋を構想し、地道に実行していくこと。

書くことも生涯スポーツ。私も、マイナーブロガーとして、ちょっとずつトレーニングを積んでいこうと思う。

<追記>
ガ島通信さん、つぶやきさんにトラックバック(トラックバックのやりかた、これであっているのかしらん。。。もう長いことしていないから忘れているのだ。)

アクション・ネットワーク

身の回りから何かを変えていく。誰にだって、できることはあるはず。

そんな発想で、BBCが作ったサイト。
http://www.bbc.co.uk/dna/actionnetwork/
セレブを取り込むにはどうするか?なんて説明がまとめてあったりする。 http://www.bbc.co.uk/dna/actionnetwork/A4289628

同じく、環境活動グループのSTEP IT UPも、同じような発想のようだ。
http://stepitup2007.org/index.php

どの活動も興味深い。
こうした活動が、MITにNight Bridge Foundationの寄付で先ごろできた、Center for Future Civic Mediaのサイトで紹介されている。
http://civic.mit.edu/

こういうムーブメントが起こるのは、Civic Mediaがあるからなのか、それとも必要とされているからなのか。
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